通信Vol.193(2020年6月)

 

ようやく緊急事態宣言も解除になりましたが、巷ではまだまだコロナの脅威に対して敏感になっています。完全終息するまではまだ当分かかりそうですね。3密を避けてアウトドアライフを初めた方もいるようですね。

 

 今回は仏教で教えられる「正見(しょうけん)」ということについてお話ししたいと思います。

 人間関係の悩みは人それぞれだと思いますが、「あの人にこんなひどいことを言われた」とか「あの人は、なんであんなことをするのだろう」「自分にもっと優しく接してほしい」などの悩みの根底に共通してあるものは、自分の中にある「こういう場合は、あの人はこう接するべき」「あの人はあんなことを言うべきではない」「あの人はもっと自分に優しく接するべき」という他者に対する「べき」論です。

 

 これを解決する方法が「正見」であると仏教に教えられています。「正見」とは文字通り、物事(人)を正しく見るということですが、どういうことでしょうか。

昔とんちで有名な一休というお坊さんがいました。あるとき悪戯心からか一本の松の木の前にこんな立て看板を出しました。「この松を真っすぐに見た者には※金子(きんす)を与える」これを見た町の人々はあらゆる方向から曲がった松を真っすぐに見ようと、寝転がったり松の木に登ったりしましたがどうしても真っすぐに見ることが出来ませんでした。そこに現れたのが「蓮如上人」といわれる一人の僧侶です。「どれどれワシが金子をもらってこよう」と言って一休和尚の所へ行きましたが、元々蓮如上人と一休さんは友達だったため「おまえは除外じゃ」と言って門前払いしたというエピソードが残っています。

 この話のタネあかしをしますと曲がった松を「曲がった松だなー」と見ることが正解だったのです。「曲がった松だという事実を真っすぐに見る=正見」ということです。これを人間関係に当てはめると「怒りっぽい人なんだなー」「あの人に酷いことを言われて、私傷ついたんだなー」「もっと優しくしてほしいのに(自分が)さみしいんだなー」とそのまま受け取るということです。曲がっているものを真っすぐに見ようとするところに無理があります。

怒りっぽい人は「怒りっぽいんだな―」と観る。傷ついたときは「私、傷ついてるなー」と観る。 「かくあるべき」を捨てて「〇〇なんだなー」と俯瞰して観ることによって少し冷静に物事が観られます。今日からはじめてみませんか?

 

※金子(きんす)=お金