通信Vol.28(2006年9月)

 暑い夏も終わり、いよいよ冬の足音が聞こえてきそうですね。飛騨は本当に秋が短いですね。暑いのも寒いのも苦手な僕は春と秋が好きな季節です、春のエネルギーに満ちた山々もいいけど、秋の黄昏も心落ち着きますね。

 今回は、一つのことを長く続ける大切さについてお話したいと思います。これは仏教を説かれたお釈迦様のお話です。
 釈尊(お釈迦様)の10大弟子の1人、シュリハンドクは、自分の名前も覚えられぬ生来のばかだった。そのため名前を言わなくても、相手にわかるように名札を四六時中、体の前と後ろにつけていた。
 さすがの兄も愛想をつかし、家を追い出した。門の外で泣いているシュリハンドクに
「なぜ、そんなに悲しむのか」
釈尊は、親切におたずねになった。正直に一切を告白し
「どうして私は、こんなばかに生まれたのでしょうか」さめざめとハンドクは泣いた。
「悲しむ必要はない。おまえは自分の愚かさを知っている。世の中には、賢いと思っている愚か者が多い。愚かさを知ることは、最もさとりに近いのだ」
釈尊は、やさしくなぐさめられて、1本のほうきと『ちりを払わん、あかを除かん』の言葉を授けられた。
 シュリハンドクは清掃しながら、与えられた聖語を必死に覚えようとした。

『ちりを払わん』を覚えると『あかを除かん』を忘れ、『あかを除かん』を覚えると『ちりを払わん』を忘れる。

しかし彼はそれを20年間続けた。その間、一度だけ釈尊からほめられたことがあった。
「おまえは、何年掃除しても上達しないが、上達しないことにくさらず、良く同じことを続ける。上達することも大事だが、根気良く同じことを続けることは、もっと大事だ。これは他の弟子にみられぬ殊勝なことだ」
釈尊は彼の、ひたむきな精進を評価せられたのである。
やがて彼は、ちりやほこりは、あると思っているところばかりにあるのではなく、こんなところにあるものか、と思っているところに、意外にあるものだということを知った。そして
「オレは愚かだと思っていたが、オレの気づかないところに、どれだけオレの愚かなところがあるか、わかったものではない」と驚いた。
ついに彼に、阿羅漢のさとりが開けたのである。
よき師、よき法にあい、よく長期の努力精進に耐えた結実にほかならない。
「光に向かって100の花束」(1万年堂出版)より

後日談で、彼の墓の周りから「みょうが」が生えたので「茗荷(名前をかつぐ)」と命名され、みょうがを食べると(しゅりはんどくみたいに)忘れっぽくなると言われているらしいですよ。
シュリハンドクみたいに何十年も掃除だけというのは無理にしても、「転がる石にはコケが生えない」と言われます。自分に合った職を探して転々とする時期もあるとは思いますが、ここと決めたらじっくり腰を据えて頑張ってみることも大切なことです。「幸せの青い鳥」は、今の職場にいるのかもしれませんよ。