通信Vol.29(2006年10月)

 秋は一雨ごとに平均気温が1℃づつ下がっていくと言われていますが、日に日に寒くなっていきますね。いよいよ我が家でも、灯油ストーブ、コタツの出番です。
今回は「脱・あたりまえ」というテーマでお話したいと思います。普段あたりまえすぎてきづかないことに感謝って出来ないですよね。最近、心理カウンセラーの衛藤信之氏の講演を聞いて、あたりまえの素晴らしさに改めて感動しました。
「ただいま」と帰ったら「お帰り」と言ってくれる家族がいる。朝会社に行くといつも変わらずに出勤してくるスタッフがいてくれる。いつものように登録者が来てくれて、いつものように顔を見せてくれるスタッフが居る。なんだあたりまえじゃないかと言われるかもしれません。先日、埼玉で自動車が保育園児の列に突っ込んで園児数名が亡くなるという痛ましい事故がありました。亡くなった園児の家族は、その日の朝、最後の別れと思って子供を送り出していたでしょうか?「あたりまえ」が崩れたときに初めて「あたりまえ」の大切さに気付くのです。
子供に対して「学校の成績が悪い」「言うことを聞かない」あるいは夫や妻に対して「だらしない」「酒癖が悪い」「思いやりがない」等と否定的な感情を抱くことはあるでしょう。でも、もし家族の誰かが病気になって、余命1ヶ月と診断されたらどうでしょうか。それでも「どうして宿題しないの」とか「どうして話を聞いてくれないの」と相手を責めますか?結婚した時や子供が生まれた時は、「傍に居てほしい」「元気に育ってほしい」等、もっとシンプルな願いを持っていたはずです。
「人生はまだまだ長い」と思うと見えてこないものが、あと何ヶ月、あと何日、あと何時間の命、と人生を区切って見ていくと、本当に大事なものが見えてくるのではないでしょうか。「もしあと1日しか命がなかったら、ここで何て言うだろうなー」と考えてみると意外とどうでもいいことに腹を立てていたり、小さいことで悩んでいる事に気付かされました。お茶の世界に「一期一会」という言葉がありますが、人と接するときに「今が最後」という気持ちで望むということです。初めて会った人はもちろん、毎日会っている人に対しても「今が最後」という気持ちを持つことで物事の本質が見えてきます。
我が家の娘たちを見て、今まで「いつまでパソコンやってるの」「どうしてパジャマをたためないんだ」と腹を立てていた自分が「生きて帰ってくれてよかったなー」「赤ちゃんのころ、熱が引かなくて点滴したときは、死なないでくれって心から思ったなー」「多くは求めない、生きてさえいてくれたら」と考えたら、そこに居ることが嬉しくて、同じようにパソコンや服のことで注意するにも言葉を選んで話せるようになって、こちらの言葉もすんなり聞いてくれるようになりました。こころにゆとりがあると何でもうまくいくようですね。
照れくさくて「生きててくれてありがとう」「毎日会社に来てくれてありがとう」「ご飯を作ってくれてありがとう」と面と向かっては言いにくいけれど、「ありがとう」は慣れると誰にでも言えるものです。レストランやお店で店員に「ありがとう」、エレベーターのボタンを押して待っててくれた人に「ありがとう」、社内で仕事をしてもらったら「ありがとう」、家族の間で「ありがとう」。「ありがとう」は相手の存在(生命)に対する感謝の言葉です。その一言で自殺を踏みとどまる人があるかもしれません。世の中にたくさんある「あたりまえ」を「ありがとう」に変えてみませんか?きっと暮らしやすい社会になるのではないでしょうか。