通信Vol.84(2011年5月)

 桜も散っていよいよ新緑の季節ですね。これから夏に向けての季節が一年の中で一番エネルギーに満ち溢れている気がします。そんな自然界の勢いに圧倒されながらも、勢いに乗らずに自分のペースでコツコツと歩んでいくことが、今の自分にとっては大切なんだと最近気付きました。

 先日より、アメリカ9.11テロの首謀者であるとされるオサマヴィンラディンがアメリカ軍の手によって殺害されたニュースがテレビで幾度となく放映されたので、ご存知の方も多いと思います。私はこのニュースを見てある方のエピソードを思い出しました。
 法然上人(ほうねんしょうにん)といえば、浄土宗(じょうどしゅう)の開祖(かいそ)と言われる人ですが、浄土真宗(じょうどしんしゅう)を開いた親鸞聖人(しんらんしょうにん)の師匠としても有名な方です。
 その法然上人は1133(長承2)年、美作国(みまさかのくに)(今の岡山県)久米で押領使(おうりょうし)の漆間時国(うるまのときくに)の子として生まれました。幼名を勢至丸(せいしまる)といいます。勢至丸9歳の時、父漆間時国は土地を巡る抗争により、同じ稲岡荘預所荘官明石定明(あかしさだあきら)の夜襲にあって世を去りました。この時、勢至丸に父は「仇を討てば、次は相手がこちらを仇と狙うだろう。未来何代にもわたって争いが続くのは避けねばならん。おまえは私の仇を討つのではなく、仏門に入り、迷いを離れ、すべての人の救われる道を求めよ」と遺言しました。その遺言通り仏門に入った勢至丸は、メキメキと頭角を現し15歳で出家し名を法然源空(ほうねんぼうげんくう)と改め、それまで聖道仏教(出家して救われる教え)しか知らなかった仏教界において、浄土仏教(在家のまま、すべての人が救われる教え)を広め、勢至菩薩(せいしぼさつ)の化身(生まれ変わり)とまで言われました。

「目には目を歯には歯を」と言ったのは古代の人ですが、今日も欧米諸国やイスラム圏の人達は、報復を良しとしています。しかし本当に報復が人に幸福をもたらすのでしょうか?
 殺人までに至らなくても、誰かにひどい仕打ちをされた時に「いつか仕返しを」と心に刻んだり、別の人に八つ当たりしたり。憎しみのドミノ倒しのように連鎖が始まることがよくあります。
 でもそんな憎しみの応酬や連鎖は、傍で見ていて痛々しさを感じずにいられません。先日のオサマヴィンラディンの殺害を報じるニュース、とりわけアメリカ人の反応を見ていて何となく釈然としない思いを感じていたのは私だけでしょうか?

 何年か前に、神戸で20代の男性が駅のホームで男に突き落とされ、電車にひかれて命を落とすという痛ましい事件がありました。犯人はすぐに捕まりましたが、その時テレビのインタビューに答えた被害者の父親は「犯人を憎んでも息子は帰らない、犯人にはしっかり罪を償って息子の分まで生きて欲しい」と語っていました。もし自分がその父親の立場だったらそんな言葉が言えるでしょうか?私には一生かかってもそんな境地にたどり着けそうもありませんが「犯人を憎んでも息子は帰らない」という言葉には深く考えさせられます。

 自分が負の連鎖の中に立たされた時、憎しみのドミノ倒し、恨みのバトンリレーの真っただ中に立たされた時、自分のところで連鎖を断ち切ろうと思ったら自分はやられっぱなしで終わらないとなりません。いわゆる貧乏くじを引かねばなりません。貧乏くじと聞くと弱い人が引くものと思われがちですが、本当にそうでしょうか?歯を食いしばって貧乏くじを引ける人ほど強い人はいないはずです。自分一人で大きな川の流れを堰き止める覚悟が無ければ貧乏くじは引けません。何者にも恐れずに、人生の貧乏くじを引受ける勇気を身につけてみませんか?