通信Vol.90(2011年11月)

朝の冷え込みがようやく秋らしく、空気がひんやりするようになってきました。山の紅葉もきれいに色づいていますね。

 ブライトスタッフが9月末に創業10周年を迎えたのを機に、私がこの10年で学んだこと、今までの人生を振り返って懺悔をしたいと思います。
 そもそも何故人材派遣の会社を立ち上げるに至ったのか?と、よく人に聞かれるのですが。その理由の一つに、自分も失業しハローワークに1年間通っていたことが上げられます。ハローワーク通いで仕事探しのマッチングの難しさを痛感しました。正確には浄土真宗の住職という側面もあるので、100%失業ではなかったのですが、寺の収入だけでは家計がまかなえなかったので別の職に就く必要にせまられていました。20代前半から独立を夢見て、色んな経営学やビジネス書を読みあさっていたので、今こそ独立のチャンスと思ってはみるものの、何を始めたらいいのかさっぱり思いつかない。そんな時に目に留まったのが、某大手派遣会社のエリアマネージャーの募集でした。面接会には何人か応募者が来ており、自分はダメかなと思いつつ派遣の仕組みを聞いているうちに、大胆にも自分にも出来るかも!?と思い込んでしまったのです。目論見どおり(?)面接には落ちたのですが、そこから昔の友人をたどって派遣会社のノウハウをかき集めました。県内の企業にも派遣に関するアンケートを送りつけ、ド素人のマーケティング調査を断行。その結果も踏まえて、「飛騨でも派遣は必要」というかってな思い込みの元、会社登記も見よう見まねでこなし、平成13年9月28日手漕ぎボートで大海原に漕ぎ出したのです。

 さかのぼって思い返せば、25歳で父親と死別し高山に帰ってきてから最初に就職したのが医療器販売のT社でした。病院や学校への営業で、日中は外回り、夕方会社に帰ってから次の日の準備と物品の発注。当たり前のように毎日9時10時まで仕事をしていました。同僚と2人で夜、黙々と仕事をするのですが、まれに上司の悪口で花が咲いていました。今でも当時の同僚と会うとその時の悪口が再燃しそうになるのですが、給料もそれなりに貰っていて、雇い主の社長の悪口を言っていたのだから、恩知らずな若者でした。T社での経験が起業の遠因になったのも事実なので、今では感謝しています。
 その次に就職したのが、某社会福祉団体。知的障害者の指導員という肩書でしたが、やっていることは生活全般のお世話でした。ここで学んだことは、ひたすら待つという忍耐力。食事を誰よりも早く食べる早喰力(?) 何故かというと、障害のある方たちは生活の行動全般が緩慢です。だからと言って手を貸して早く行動出来るようにすれば、本人の為になりません。体は大人でもまだまだ学習の途上なのです。それでいて食事は非常に早い。一緒の食卓で同じ給食を食べるのですが、食事介助をしながら自分も食べていると、いつの間にかあちこちから手が伸びてきて、自分の食事も食べられてしまいます。だから、利用者が食事介助で一口を咀嚼している間に、自分は3口放り込んでほとんど噛まずに飲み込みます(笑)この施設での経験が生かされて、自分の子供の行動に手を出さず、怒らずに見守ったり、人の成長を我慢強く見守ることが出来るようになりました。楽しみながら5年間勤めましたが、これまた辞めるきっかけに恵まれて(?)失業し、冒頭のハローワーク通いにつながるわけです。
 
 企業に勤めて雇われるということと、企業を経営して人を雇用するということの違いがこんなにあるのかと、目から鱗がおちた10年でした。自分ひとりで大人になったかのような勘違いが、自分が親になって、それがとんだ奢りだと知りましたが、経営者になって初めて今まで自分が守られた存在であったと痛感しました。魚は水から出た時に、水のありがたみを知ると言われますが、世の中のすべてのことが当たり前じゃないということを、この歳になってようやく実感します。今まで社会や先人から受けてきた御恩を、自分より若い世代、次世代の為に還流して御恩返しとしたいと思います。