通信Vol.91(2011年12月)

今年は多くの日本人にとって、忘れられない年になったのではないでしょうか?今までの安全や自然に対する常識がことごとく覆されて、諸行無常を痛感した人も多かったと思います。当たり前に続くと思っていた毎日が、実は綱渡りのようにものすごい確率で続いているだけなんて、あなたは信じられますか?

戦後、日本は高度経済成長を遂げ、現在の中国のように短期間ではないでしょうが、生活が一変したと聞きます。特に近年は情報化社会と言われ、誰でも1台は携帯を持つようになり、携帯電話を持たない人を変人扱いする風潮さえあります。しかし、便利になればなるほど心に余裕が無くなり、他人に対する優しさも何処かに置き去りにしてきたのかもしれません。

僕の好きな歌手の浜田省吾の「青の時間(あおのとき)」という歌の歌詞で、「彼女は約束の場所で待ち疲れて、俺が来ないことを最後の答だと決めて去ってゆくだろう・・・」という歌詞があります。もう一度やり直したい彼女との待ち合わせに車で向かう途中、高速道路の渋滞にはまってしまい、身動きが取れないもどかしさと、このまま終わってしまう彼女との運命を受け入れる切なさをうたった歌詞なのですが、現代のカップルならば携帯電話や携帯メールで「ゴメン、高速が渋滞でちょっと遅れるからマックかどこかで時間つぶしてて」「わかった、気をつけてね」なんてやりとりがあるんでしょうね。
携帯がなかった頃の方が、人と人との間で誤解やすれ違いは多かったのかもしれませんが、色んなことを我慢したり、相手を思いやる心は豊かだったんじゃないでしょうか?
ラブレターを書いて渡したり、置手紙をした時は、「返事もらえたら嬉しい」という気持ちはあっても「何で返事くれないのよー」という気持ちを相手にぶつける人は少なかったのではないでしょうか?便利になったはずの携帯電話ですが、「電話に出るのが当たり前」「メールの返事はすぐに返すもの」と相手の都合などお構いなしで、自分勝手な要求を突きつけてはいませんか?
夫婦や恋人との間で、携帯電話が原因のケンカや離婚も多いと聞きます。相手の携帯電話を見て浮気を疑ったり、相手を束縛しすぎたりでお互い疲れてしまうのかも知れませんね。携帯メールの普及で、今まで知ることができなかった他人の心の中まで、土足で踏み込むようなことが平気でされるようになったからでしょうか?

便利さと同様に、日本人が慣れてしまった過剰なサービスもじわじわと私たちの心を蝕んでいます。
スマイル0円のサービスに慣れてしまうと、ショップの店員、レストランのウェイトレスは満面の笑みで自分を迎えてくれるのが当たり前、表情が暗いとお店のアンケートに不平不満を書き連ねる人が出てきます。その日は、お店の店員さんにとってとても悲しい出来事があって、無理に仕事に来ているのかもしれないのに、相手の都合なんておかまいなしに、客である自分中心に世界がまわっているように感じたり、お金を払っているのだから自分に愛想よくするのが当然と思ったりします。
過剰なサービスに慣れてしまった私たちは、ちょっとでもサービスが悪いと「二度とあんな店に行かない」と自分が思うだけならまだしも「あの店感じ悪いから、行かない方がいいよ」と自分の主観を他人に対しても押し付けようとします。

私自身、便利さやモノの豊かさに誤魔化されて自分の心を見失いかけていましたが、今年の震災やその後の自粛ムードの中で、少しだけ自分の心と向き合うことが出来ました。「何にでも感謝」なんて押しつけがましいことを言うつもりはありませんが、色んなことに当たり前と感じている自分の心を今一度見つめなおしてみませんか?あえて不便さの中に身を投じてみるのもありかもしれませんね。