通信Vol.103(2012年12月)

毎年、寒い冬になると、晴天率の高い太平洋側に移住したいという思いも頭をよぎりますが、根っから飛騨人の私は、飛騨が終の住み処(ついのすみか)と確信しています。

「棺を蓋いて事定まる(かんをおおいてことさだまる)」=(意味・人は死んで棺に納まった時に、その人の真価が決定するということ。)と言われますが、歌舞伎俳優として絶大な人気を誇り、先日お亡くなりになった中村勘三郎さんの追悼番組を見る度に、これだけ各界の人から死を悼まれる人っていただろうかと思います。

勘三郎さん程ではないでしょうが、家族、親族から惜しまれてお亡くなりになった男性のお話をご紹介したいと思います。
その男性(Nさん)は、ある老人施設に入所していたので、そこの職員の方から聞いた話です。
施設に入所中、一時外出で自宅に帰った時は、近所の人や親戚中がNさんに会いに集まってきたそうです。とかく老人は「手がかかるから」とか「話が通じない」などと家族からも毛嫌いされてしまいがちですが、Nさんの場合は全く逆です。

Nさんは生前、妻や子供、孫、兄弟や家族等々、周囲の人を大事にして生きてこられたそうです。たとえば、地域の祭りの時は、自分で料理を作って親戚や兄弟、近所の人を招いて御馳走をふるまったり、奥さんの親が入院した時には、看病に当たった奥さんや奥さんの兄弟が、病室で食べるようにと弁当を作って持っていったり、とにかく何か周囲の人が喜ぶことはないかと探して歩いたような生き方をされたそうです。
私も直接Nさんにお会いしていないので想像の域をこえないのですが、Nさんの周りには温かい空気が充満していたのではないでしょうか。
他人に与えたものが、自分が得られるものだと言いますが、Nさんの人生はまさに典型的な「他人に与える人生」だったと言えるでしょう。

こういう話を聞くと、私は何も持っていないから与えられないと言われる人がありますが、何もお金や物を与えられる人だけが豊かになるのではありません。「優しい言葉」であったり「優しい眼差し」や「困っている人に一宿一飯を与える」、「電車内で座席を譲る」といった行為も立派な「与える」行為です。テレビに出ている俳優や芸人と呼ばれる人たちが、高い収入を得ているのも、たくさんの人々に感動や勇気、笑いを与えているからこそなのです。

与えた以上の物を取ることを仏教では「不与取(ふよしゅ)」と言い「偸盗(ちゅうとう=盗み)」と同じと教えられます。平たく言うと、身分不相応な物を持つことを「不与取」と言います。わかりやすい例で言うと、親のスネをかじっている子供がブランド物のバッグや財布を持ち歩くような行為を言います。アルバイトをして自分のこずかいで買うのだからいいじゃないかという声も聞こえてきそうですが、持ち主と持ち物を見た8割の人が納得するならば「身分相応」であると言えますが、それを見た大方の人が首をかしげる持ち物は「身分不相応」ということです。
困っている人に物やお金、笑顔や優しい言葉を掛けられるようになると、少しくらい贅沢をしても周囲の人から賛同を得られるようになります。まずは少しからでも、他人に与える意識をしてみてはどうでしょう。きっと未来は明るくなるはずです。