通信Vol.114(2013年11月)

 いつの間にか山は紅葉し、雪もちらついています。仕事に追われているうちに季節はすっかり初冬にかかっているようです。
 先日家の片付けをしていた時にふと思ったのは、捨てるものと取っておくものの判断基準はどこなんだろうってことでした。自分なりに物を整理する時、1年間使わなかったら整理予備軍に入れて2年間使わなかったものは処分するというようなルール作りをします。
 これは、時間軸を狭めていくことによって大事なものとそうでないものを見分ける手法です。10年間使わない物より5年間使わない物の方が数量的には小さくなっていきます、5年間より2年間、2年間より1年間と時間軸を狭めることによって、使わない物の数が増えていきます。

使わない物を処分することによって、後で「やっぱり要る物だった、捨てなきゃよかった」と後悔することがあったとしても、その時新たに買わなければならないというデメリットよりも身軽になるメリットの方が多いような気がします。

 今回書きたかったのは、物を捨てる基準ではなくて思考を捨てる基準についてです。
 私たちは、自分の思考によってかなりの部分で縛られ不自由な思いをしています。例えば「トイレのスリッパはきちんと揃えて脱ぐべきだ」と思っていると、公共の場所で自分はトイレのスリッパをきちんと揃えて脱いでいたとしても、自分以外の人が反対向きのままで脱ぎっぱなしという場面に出くわした時に、悶々としたり腹立たしく思ったりします。「トイレのスリッパはきちんと揃えて脱ぐべきだ」という思考が自分を窮屈にしているわけです。
 次に使う人のことを考えて、すごく良いものの見方をしているのに、余計なことを考えて腹を立てたりストレスが溜まったりしています。
 こんな時どのように考えたら自分が楽になれるのでしょうか?
 
 色々な手法はあると思いますが、私は「世界に自分一人しかいなかったら」手法を使います。これは私が考案した手法なので、勝手にネーミングしています(笑)
 もし世界に自分一人だったら、自分がやっていること以外は自然界の現象か動物の仕業です。そんなことに腹を立てる人がいるでしょうか?雨が急に降り始めたから腹が立ってしょうがないとか、昨夜は雷がうるさくて寝られなかったからイライラしたなんていう人はいないでしょう。自然現象や動物の仕業は、自分一人が悩んでも仕方ないから受け入れるか受け流す、という思考が身についているからです。
 他人と意見が衝突した時にも、この手法が使えます。自分の大切にしている考えが、本当に貫き通すほど重要かどうかの判断も「世界に自分一人しかいなかったら」手法で解決します。
自分一人しかいない世界でもその考えを貫き通す意思があるならば、重要な考えでしょうし、そうでなかったならば、変更可能ということです。
 たとえば、仕事の手法であるとか、旅行のプラン、ランチで何を食べるか、どんな服を着ていくか等々の問題で悩む人も多いと思いますが、もし世界に自分一人だったらそんなことでは悩まないでしょう。だからどんな選択肢をとっても大差ないのです。どんな選択肢を選んでも多少の後悔と多少の満足は残るのです。

 最も重要な選択は、世界に自分一人しかいなくて、それでも選びとる選択肢です。
 そんな選択肢をお持ちですか?