通信Vol.132(2015年5月)

新緑が眩しい季節がやってきました。一年でこの時期の紫外線が一番強いらしいですね。もちろん紫外線が強いからと言って日光に当たらないのはかえって不健康らしいです。
 
 先日我が家で飼っていた猫が突然姿を消しました。もうすぐ20歳になる長女が、16歳の時に知人をつてにもらってきた雄猫で長女がとりわけ可愛がっていました。名前を「コハク」と言います。この「コハク」が不思議な猫で、以前私がパソコンの大事なデーターが入ったCD−Rを探していた時に、おもむろにソファーの下からそのCDを足で蹴飛ばしながら出てきたのです。その後も何度か探し物を手伝ったり、落ち込んだ時に気持ちを察するように傍に居てくれました。
そんな「コハク」が突然に家の周辺から姿を消し、町内あちらこちら2−3日探しても見つからなくて心配していました。もしやと思い、市役所の土木課に猫の死骸の処理依頼が無かったか問い合わせると、ちょうど「コハク」のいなくなった日の夕方に、家の近所で猫の死骸を処理してほしいと依頼があったとのことでした。
通報してくれたと思われる近所の方に直接話を聞くと、どうも「コハク」が車に轢かれたに違いないようでした。
 今までウサギ、鳥、犬などペットの死に何度か遭いましたが今回はとてもショックでした。遠く離れて暮らす娘の代わりに可愛がっていたせいかもしれません。

 他人には「会者定離」なんて分別臭いことを言っていましたが、わが身の「会者定離」はなかなか受け入れられません。「あの時声をかけて家に入れておけば・・・」なんて後悔が頭の中をぐるぐると駆け巡ります。
 しかし、世の中は厳然とした因果律で成り立っていると常日頃思っています。事故に遭うものは、自分の過去の行いによって事故現場に吸い寄せられて行くのでしょう。「コハク」は自己のやってきた行いによって、車の走ってくる現場へと駆り立てられたのです。

 そう思うと、今こうして自分が生きていることが不思議に思えてきます。「コハク」よりも何百倍何千倍もの生き物の命を食べて生命を維持しています。いつどこで事故に遭ったり、通り魔に刺されるような不幸に遭っても不思議ではないのに、今日もこうして生きています。

 周りの人達、家族、友人、職場の仲間、近所の人、誰をとっても不思議な偶然の重ね合わせの中で毎日生きていると思えてきます。いつ死んでも何ら不思議ではないのです。
 今朝交わした言葉、さっき交わした微笑み、昨日のケンカがその人との最後の瞬間になるかもしれないと思うと、その一瞬一瞬が掛け替えのない瞬間に見えてきます。
 ケンカをして別れるよりも最後の笑顔を焼き付けるつもりで笑って別れたい、寝起きの不機嫌な気持ちで見送るよりも、最後の瞬間を味わいながら玄関から送り出せたら、お互いにどんな素敵な一日でしょう。
「そんな大げさな」と思っている人の多くが、最後の瞬間を最後と知らずにぞんざいな別れ方をして後悔しています。

 今一度、大切な人達との一瞬一瞬を大切に味わってみませんか?