通信Vol.139(2015年12月)

 今回は「自分の不完全さを認める勇気を持つ」と題してお話ししてみたいと思います。
誰でも「あなたは完璧ですか?」と聞かれれば「完璧です」と答える人より「不完全です」と答える人の方が多いと思います。私はもちろん後者です。ところが心の奥底では「自分は完全に出来ている、あの人は不完全だ」と他人を裁こうとする気持ちが少しはありませんか?他人を裁こうとする心は「自分は完全だ!」と思いこもうとする心の現れなのです。「自分が完璧だからあの人のミスがすごく気になる」というスタンスなのでしょうか?
ここで最初の質問を思い出して下さい、「あなたは完璧ですか?」と聞かれて「私は完璧です!」と言える人はどんなふうに見えますか?細かい物事を一つ一つ見た時に「ここは完璧」、「ここは間違っている」ということはあるでしょうが、すべてにおいて完璧なんてことはあるのでしょうか?
 こうして書いている私もかつては自分の欠点を見たくない一心で「あいつが悪い、世間がわかっていない、あの上司が悪い、だから自分は悪くない」と周囲に罪をなすりつけて自分を正当化していました。自分の欠点や短所を見たくない一心だったと思います。だから誰かに注意されると、人格を否定されたような気がして無性に腹が立って「自分の方が正しいのに!」と心の中で叫んでしまっていました。
誰でも自分の本心やクセ、特性なんかを知りたくないというより知るのが怖いのだと思います。
でも実は自分の内面を知って、良いところも悪いところも認めて受け入れることが人とのコミュニケーションにおいてはとても大切なことだと知りました。自分の欠点を認めて受容するということは他人の欠点も受容するということです。自分の欠点を見ないように目を背けていると他人の欠点が嫌というほど目につ いてきます。
どうやら私たちの脳は、自分を許すということと他人を許すということ、他人を責めることと自分を責めることが区別できないようです。他人を許せないということは、自分の中の嫌な部分を見たくない(許せていない)ということなのですね。
 以前、脳科学の学者が私たちの脳は自分が発した言葉と他人が発した言葉を区別できないと言っていました。他人のことを「馬鹿だよね」と言うのと、誰から「馬鹿だよね」と言われるのを区別できなくて、同じように脳はダメージをうけるということらしいのですが、それと似たような現象なのでしょう。
 他人の気になる欠点は、自分の欠点を映し出しているのだと考えると、誰かがミスをしているのに気付いたら「ここ間違っているけど、僕も同じようなミスをするから一緒に対策を考えよう」と声がかけられます。「君、ここ間違っているよ、これまでも何度も同じミスをしているね」と指摘するより数倍建設的だと思いませんか?
自分の不完全さを認めるのは、すごく勇気のいることです。でも自分を一番許さなければいけない人は貴方自身ですよ。自分の為にも、周囲の人の為にも