通信Vol.154(2017年3月)

まだ雪が降る寒い日がありますが、春は目の前までやって来ています。2017年が始まってもう3ヶ月が経ちます、時が経つのは早いですね。
 
 今回は健全な自己肯定感の作り方についてお話したいと思います。
自己肯定感とは自分の持っている性格、能力、容姿、学力、資格等々を肯定的に捉える感覚です。貴方はどんな自己肯定感を持っていますか?「暗算がすごい」「運動神経が良い」「性格が良い」「容姿に自信あり」「甲斐性がある」「仕事が出来る」等々人それぞれあると思いますが、この自己肯定感にも「自発型自己肯定感」と「他承認型自己肯定感」があります。
「自発型自己肯定感」とは他者にどう評価されようが、自分の実績としてこれだけやってきたのだからと、自分の経験と実績に裏打ちされた自己肯定感です(自己満足感ともいえます)。もう一つの「他承認型自己肯定感」というのは他人の評価に基づいた自己肯定感です。ツイッターフェイスブックやインスタグラムといったSNSで「いいね」や「フォロワー」の数で感じる自己肯定感もこれにあたります。                                                                                                 
この「他承認型自己肯定感」は他者から評価されている時は良いのですが、他人から評価されなくなるとガラガラと崩れてしまって「私が生きる意味は?」と深刻に悩みます。他人の評価はその時その時でコロコロ変わりますから、他人の評価でつくり上げる自己評価が如何にもろいか分かると思います。

震度1でも崩壊しそうな「他承認型自己肯定感」を盤石の土台に建てる方法があるので、その方法を紹介したいと思います。それは声に出して「自分がいなくても時間は止まらない」「私がいなくても会社は動く」「私がいなくても子供は育つ」と言ってみることです。声に出して言ってみると心がザワザワしませんか?
心がザワザワするのは心の奥底では分かり切っていることなのに、認められないからです。「私は会社で必要とされている」「私がいないと家族が困る」と思っているのは周りの人から「貴方がいないと仕事がまわらない」とか子供から「お父さん(お母さん)がいないと困る」と言われるから感じている「他承認型自己肯定感」です。
テレビの世界でも、この人でなければと言われた人の交代が頻繁に見られます。ドラえもんの声を演じていた大山信代さんは2005年に水田わさびさんにバトンタッチしました。サザエさんの登場人物の声も私が子供の頃見ていたのとはガラッとかわってしまいました。島田紳介氏が突然芸能界を引退した時も、氏が司会を務める番組がどうなるか注目されましたが、後輩がしっかり代わりを努めていました。
私の役割を埋める人は必ず出てくるのです。そんな中、自分が何のために生きるのか、どう自己肯定感を作っていくのかを考えないと他人の評価に依存する生き方になってしまいます。他人の評価に自己肯定感をゆだねてしまうと「頑張っているのに認めてくれない」「ちっとも自分を見てくれない」「愛してくれない」「注目してくれない」とクレナイ族になって周囲の人を疲弊させてしまいます。SNSで批判されただけで自殺してしまうのも他人の評価に自己をゆだねすぎた悲劇です。

見たくないかもしれませんが「私がいなくても時は過ぎ、四季はめぐる」という事実を真正面から捉えて、それでも「仕事をする意味」「恋人と過ごす意味」「家族と過ごす意味」を考えた時に、他人の評価に左右されない「自発型自己肯定感」が育つのではないでしょうか。

通信Vol.153(2017年2月)

 今年は雪が少ないなんてたかをくくっていたら、連日の雪降りで「もうたくさん」と思っている人も多いのではないでしょうか?何事も程々が肝心ですね。
 
 人間関係の悩みを殆どの人が抱えています。仲間とそりが合わない、夫婦間の問題、親子の問題、友人とのいざこざ、隣人とのトラブル等々あげたらキリがありません。他人との関係がうまくいかないなと思った時に、少し気が軽くなる方法を聞いたのでご紹介したいと思います。
 それは、この問題(悩み)の原因は、相手と私に半分づつあると考えることです。夫婦の問題で悩んでいる時を例にあげるなら、相手が悪夫もしくは悪妻で、あなたが良妻or良夫と仮定します。そこで相手が100%悪いという考えから離れられないと相手に天罰が下るまで恨み続けますが、そんな悪夫、悪妻を選んだ自分にも責任が半分あると考えたらどうでしょう。どんな悪夫、悪妻でもそんな人を伴侶として選ばなければ苦しむことはなかったはずです。そんな相手を選んだ選択責任が半分はあるはずです。

友人に騙されて借金を背負って苦しんでいる人も、そんな友人を信用してしまった(正確にはそんな友人に自分は良い人だと思われたいという欲がはたらいてしまった)自分に半分責任があるのです。自分は悪くないのに、自分がこんなに苦しいのはあいつのせいだという呪縛が消えないから苦しみが消えないのです。仏教では「善因善果、悪因悪果、自因自果(良いことも悪いこともすべて自分の蒔いたタネによるのだよ)」と教えられます。他人が作った原因によって自分が苦しむという結果は100%無いと教えられますが、通り魔や強盗、いじめの加害者が悪くないということではありません。それらは仏教では縁と言われ、半分の責任があります(法的な意味ではありません)が、自分にも原因(半分の責任)があるというのが仏教の考え方です。

自分にひどいことをした相手を許すということと相手の呪縛から離れるということは別の問題です。家族を殺されたり、ひどいいじめをされた相手を許せないというのは当然のことだと思います。許せない相手を許さなくてもいいのです、一生許せない相手もいるでしょう。しかしその憎しみの感情にとらわれて自分の人生が暗くなったり、行動に制限(あの人に会いそうな場所には行きたくない等)が出てきてしまうと、自分の人生が台無しになってなってしまいます。加害者の方が大手を振って生きているのに、被害者やその周辺の人達が苦しみながら生きていくというのは納得できないという人も多いのではないでしょうか?自分がどんなに悲しみの淵に立って落ち込んでいても、あなたが憎いあいつは今頃パフェを食ってご万悦なんです。あなたが悲しんでいようが、苦しんでいようが相手は微塵もダメージを受けません。

もちろん「悪因悪果」ですから、あなたが「相手に天罰を」と願わなくても当然の報いを受けるでしょう。自分が作った半分の原因は何だったのかという反省は必要ですが、あなたは相手の責任や受けるべき報いまで背負いこむ必要は全く無いのです。憎い相手のことを思い出しては憎いと思うのは相手がナイフを持って立っているところに自分から何度も刺されに行くようなものです。2次被害、3次被害を自分で作り出すのは、ばかばかしいと思いませんか?
憎しみの呪縛から離れて、もっと自由に人生を楽しみませんか?

通信Vol.152(2017年1月)

今年はいつになく暖かい正月でいささか拍子抜けしましたが、スキー場や除雪を仕事にしている人達からは悲鳴が聞こえてきそうです。降るべき時に降るべきものが降らないと夏場の水不足も心配ですね。
 今回はロボットに仕事を取られない為のお話をしたいと思います。自動車が自動運転になったりAI(人工知能)家電が進化したりすると人間の手間がどんどんなくなる上に人間の働き口まで奪われそうな勢いです。三菱総合研究所の試算ではAI技術が社会に普及すると、雇用者数が240万人減ると発表しています。AIが普及していなくても、以前は高額所得資格と言われていた弁護士や歯科医師が資格者増加により一般のサラリーマン並みの給与になってきています。東大医科学研究所が導入したAI(通称ワトソン)が、白血病患者の特殊なタイプの遺伝子を10分で見つけ、治療に役立ったという事例もあり、医師でさえ失業する可能性があります。
 私は就職に携わっている立場上、色んな人から「どんな資格をとれば安定収入が得られますか?」という質問を受けますが、私は決まって「そんな資格はありません」と答えます。将来、誰からも必要と思われるか、ロボットに交代してもらっても良いと思われるかは、その人の働き方によると思うからです。それは「仕事」と「作業」の違いといっても良いと思います。「仕事」と「作業」の違いを明確にしてみたいと思います。


仕  事
・給料以上の対価を会社に提供する
・決められた仕事以外に自分で仕事をつくる
・勤務時間に縛られない(何時でもどこでも仕事をする)
・誰かの為に働く(社会貢献)
・自分が楽しんで働く
・周囲の人とコミュニケーションをとって他人のフォローをする
・自分の頭で考える
作  業
・給料分の仕事をきっちりこなす
・決められた仕事をきっちりこなす
・勤務時間はきっちり働く
・自分の余暇を楽しみに働く
・我慢して働く
・自分の仕事だけをきっちりこなす
・上司の指示を待つ


きっちりと決められた時間内に決められた作業をすることは悪いことではないし、世の中の殆どの人が作業をこなす労働者であるといっても良いでしょう。労働者は法律で守られるし、それなりの給与を手にすることもできるでしょう。しかしそれは社会経済が安定していて、社会保障基盤があるという大前提です。
 冒頭に述べたようにAIの普及や労働者人口のバランスが崩れた時、いままで働き口に困らなかった人達がハローワークに押し掛けて、就職先を奪い合う時代が来たとしても競争に負けない、企業がこぞって欲しがる人材、高い給料を払っても確保したい人財は、「作業をする労働者」でなく「仕事をする仕事人」であるといえます。
 そうはいっても毎日同じ作業をこなす職業の人はどうすればいいのか?といった声も聞こえてきそうですが、業務改善であるとか、新たなアイデアを出すとか、他人のフォローをするとか、いまの職場で出来そうなことは色々あります。現在「仕事」をしている人はどんな職種であっても未来が明るいのです。

通信Vol.151(2016年12月)

 いよいよ冬らしくなってきましたね。皆さんのお宅では、冬支度はもうお済みですか?
去年雪が少なかった分、今年は念入りに雪囲いも済ませましたが、さて今年はどんな冬になるんでしょうか?

 今回は「自己啓発の罠」と題してお話ししたいと思います。
 自己啓発と聞いて私が真っ先に思い浮かべるのは「心理学」です。数年前、名古屋での心理学講座に3カ月間、毎週通っていました。今まで聞いたこともない事を学ぶのは新鮮でしたし、自分の心の中が少しずつ整理されていくのが楽しかった記憶があります。
心理学以外にも、モチベーションを上げたり、資格を取ったり、自分のスキルアップのための研修をうけたり、本を読んだりと自己啓発の仕方は人それぞれです。

自己啓発をする意味について少し考えてみたいと思います。
「自分自身を苦しめているのは、あなたがその手に持っているものさしだ」といった人がありましたが、自己啓発をすることによって、一つしか持っていなかったものさしを2つ3つと数を増やすことによって知識の幅を広げたり、理解できなかったものが理解できるようになることだと思います。
 譬えるならば、今までは「30センチものさし」一つで川原の石(他人)のサイズを測ってまわっていたようなものです。ところが川の上流に行くほど石は大きくなり、やがて大きな岩が現れます。「30センチものさし」では測りきれなくなります。そこで自己啓発で新しく長いものさしを手に入れます。手に入れたものさしで今まで大きくて測れなかった川原の石(他人)を、あれは90センチこれは1メートル50センチと計測するようなものです。
最初は今まで測れなかった石が測れるようになって楽しいのですが、段々石のサイズを測るのが使命みたいになってきて、石のサイズが気になってしかたなくなります。私の場合がそうでした。あの言動の奥にはこんな心理が隠されているとか、あの人の育った環境はこうなんだろうなとか、考えなくていいことまで考えて疲れてしまいます。まさに新たに手に入れたものさしによって新たな苦しみを作り出していたのです。先ほどの言葉を思い出してください。

「自分自身を苦しめているのは、あなたがその手に持っているものさしだ」

そうです、私を罠におとしいれたのは「新しく手に入れたものさし」だったのです。
すでに新しく大きなものさしは手に入れたわけですから、出すべき時に出して計測すればいいのです。四六時中計測する必要はありません。川原に立って大小様々な石のあることを眺めながらボーっとすることが必要なんだと知りました。石の大きさを測ったところで石は大きくも小さくもなりませんから。
時にはものさしを手離して、手ぶらになることも大切なんですね

通信Vol.150(2016年11月)

山々も紅葉で色づき、市街地でも鮮やかな紅葉が目立ち始めてきました。
 もう間もなく冬の到来ですね。個人的には雪のある冬景色はとても好きです。

今回は自己肯定感について考えてみたいと思います。あなたは自己肯定感を持っていますか?自己肯定感を持っている人は他人に対しても肯定的です。逆に言えば自己を否定するほど他人に対しても否定的ということです。

 自己肯定と他者肯定は両天秤のようにバランスをとっています。他人を肯定するためには、まず自己肯定感を高める必要があります。自己肯定感と聞くとどんな感情をイメージしますか?「自分は走るのが速い」「ち密な計算をさせたら誰にも負けない」「仕事の早さと正確さは社内の誰にも負けない」等々の○○は誰にも負けないとか自分の特技を自己肯定感に結び付ける人は多いのではないでしょうか?
 もちろんそういった自己肯定感も大切ですが、何かが出来ることで感じる自己肯定感には落とし穴があります。それは病気やケガなどで今まで出来ていたことが出来なくなったら、それまでの自己肯定感が総崩れとなってしまうのです。極端な例をあげれば「寝たきりになっても生きる意味がある」と思えるかどうかです。
何かが出来ないと自分を認められない人は、他人に対しても意味ある行動を求めてしまいます。意味ある行動が出来ない人は価値がないと思えてくるのです。何も出来なくても自分には生きる価値があると思えることが、本当の意味での自己肯定感です。
タレントの明石家さんまさんは、自分の子供に「いまる」と名付けました。名前の由来は「いきているだけでまるもうけ」からだそうです。何と素敵な名前でしょう。親はついつい子供に、勉強頑張りなさい、いい大学に行きなさい、ちゃんとした仕事に就きなさい、結婚しなさい、と色んなハードルを示しがちですが、生まれたての子供の顔を見た時や、子供が大病を患ったり大けがをした時にそんな事を考えたでしょうか?無事に生きてくれさえすれば、それだけで嬉しいと誰もが思ったはずです。私たちの父親や母親も、最初は自分の誕生や存在を手放しで喜んでくれたに違いありません。
物心ついたころから、自分で「○○が出来ないと自分は親から愛されない」とか「頑張らないと自分の存在価値がない」「どうせ自分は誰からも愛されない」と勝手に自分の自己肯定感を下げてきたのです。それはとても勿体ないことでもあります。
もっと根拠のない自己肯定感を感じてください。「自分は生きているだけで価値のある人間だ」「自分は世界にたった一人の人間だ」「自分は両親から愛されて育ってきた」と声を出して呟いてみてください。何か「カチッ」とスイッチが入った気がしませんか?

通信Vol.149(2016年10月)

 今年の秋は長雨でジメジメしていますね。こんな気候の時はコケ(キノコ)が豊作なのでしょうか?私はコケ取りをしないのでわかりません。匂い松茸、味しめじと言われますがどんなコケが好きですか?

 今回は「世界の中心で不満を叫ぶ」と題してお話ししたいと思います。

 自分の心と対峙してみると、世界が自分を中心に回っていると気付きます。地球は南北の地軸を中心に回っていますが、自分の生きている世界は自分を中心に回っています。これは自分だけが特別なのではなくて、誰もが自分中心の世界で生きて、自分が主人公の舞台を演じ、勝手に他人をエキストラに仕立てています。
そして自分の書いたシナリオ通りに脇役が演じてくれないと、腹を立てたり不平を言ったり、不満を抱いたりします。でも、よくよく考えてみればおかしな事だと思いませんか?
だって貴方も誰かに勝手に他人の舞台の脇役に配役され、セリフが違うとか立ち回りがおかしいと言われても、そんな脇役になったつもりがないからです。

逆に貴方の人生劇場ではどうでしょうか?無人島にでも行かない限り、1人舞台というわけにはいきません。毎日何十人、何百人という脇役と一緒に舞台を作り上げなくてはいけません。しかも、どんなに脇役が我が物顔で舞台の上を走りまわったとしても、主役は常に貴方自身です。

周りの人を悪役にして自分を悲劇のヒロインにするのか、色んな事を茶番にしてコント仕立てにするのかは主役兼舞台監督の貴方次第です。どんな内容の舞台にするかを決めると、面白いように周りの人達もそれに合わせて動いてくれるから不思議です。例えば悲劇のヒロインを演じようとすると、意地悪な姑役が現れて毎日グチグチ苛めるようになったり、自分が病気になったり、家族も不幸な役まわりを演じてくれたりします。自分が主人公のヒーロー物語仕立てにしようとすると、見るからに勝てそうな悪役が出てきたり、助けを必要とする人が出てきたりします。

勘のいい人は気付いているかも知れませんが、他人は貴方の人生劇場の脇役として動いているつもりはなくても、舞台監督の貴方が思い描くように悲劇や喜劇、感動ものの脚本に沿って動いてくれるから不思議です。正確には脚本に沿った内容に見えるというのが正解かも知れません。
どんな脚本を書いて、どんな舞台にしようが自分でどんな役を演じようが全く自由です。なんせ自分の人生劇場なんですから、やりたい放題やり切ったらいいんです。脇役のセリフがおかしいとか動きがおかしいとか、気に入らなかったら文句を言えばいいんです。相手からどう思われるかなんて気にしていたら人生は半分以上終わってしまいます。

でもこれだけは忘れないでいただきたい。他人はあなたの舞台の専属役者ではないということを。それぞれが自分の舞台の主役を演じながら、いくつもの舞台を掛け持ちしています。一家の主婦であれば、夫の舞台の妻役、子供の舞台の母親役、姑の舞台の嫁役を演じながら女性としての自分の舞台の主役を演じるわけです。
それぞれが自分主役の舞台で輝く瞬間が、本当に自分の人生を楽しめる瞬間ではないでしょうか。

通信Vol.149(2016年10月)

 今年の秋は長雨でジメジメしていますね。こんな気候の時はコケ(キノコ)が豊作なのでしょうか?私はコケ取りをしないのでわかりません。匂い松茸、味しめじと言われますがどんなコケが好きですか?

 今回は「世界の中心で不満を叫ぶ」と題してお話ししたいと思います。

 自分の心と対峙してみると、世界が自分を中心に回っていると気付きます。地球は南北の地軸を中心に回っていますが、自分の生きている世界は自分を中心に回っています。これは自分だけが特別なのではなくて、誰もが自分中心の世界で生きて、自分が主人公の舞台を演じ、勝手に他人をエキストラに仕立てています。
そして自分の書いたシナリオ通りに脇役が演じてくれないと、腹を立てたり不平を言ったり、不満を抱いたりします。でも、よくよく考えてみればおかしな事だと思いませんか?
だって貴方も誰かに勝手に他人の舞台の脇役に配役され、セリフが違うとか立ち回りがおかしいと言われても、そんな脇役になったつもりがないからです。

逆に貴方の人生劇場ではどうでしょうか?無人島にでも行かない限り、1人舞台というわけにはいきません。毎日何十人、何百人という脇役と一緒に舞台を作り上げなくてはいけません。しかも、どんなに脇役が我が物顔で舞台の上を走りまわったとしても、主役は常に貴方自身です。

周りの人を悪役にして自分を悲劇のヒロインにするのか、色んな事を茶番にしてコント仕立てにするのかは主役兼舞台監督の貴方次第です。どんな内容の舞台にするかを決めると、面白いように周りの人達もそれに合わせて動いてくれるから不思議です。例えば悲劇のヒロインを演じようとすると、意地悪な姑役が現れて毎日グチグチ苛めるようになったり、自分が病気になったり、家族も不幸な役まわりを演じてくれたりします。自分が主人公のヒーロー物語仕立てにしようとすると、見るからに勝てそうな悪役が出てきたり、助けを必要とする人が出てきたりします。

勘のいい人は気付いているかも知れませんが、他人は貴方の人生劇場の脇役として動いているつもりはなくても、舞台監督の貴方が思い描くように悲劇や喜劇、感動ものの脚本に沿って動いてくれるから不思議です。正確には脚本に沿った内容に見えるというのが正解かも知れません。
どんな脚本を書いて、どんな舞台にしようが自分でどんな役を演じようが全く自由です。なんせ自分の人生劇場なんですから、やりたい放題やり切ったらいいんです。脇役のセリフがおかしいとか動きがおかしいとか、気に入らなかったら文句を言えばいいんです。相手からどう思われるかなんて気にしていたら人生は半分以上終わってしまいます。

でもこれだけは忘れないでいただきたい。他人はあなたの舞台の専属役者ではないということを。それぞれが自分の舞台の主役を演じながら、いくつもの舞台を掛け持ちしています。一家の主婦であれば、夫の舞台の妻役、子供の舞台の母親役、姑の舞台の嫁役を演じながら女性としての自分の舞台の主役を演じるわけです。
それぞれが自分主役の舞台で輝く瞬間が、本当に自分の人生を楽しめる瞬間ではないでしょうか。