通信Vol.198(2020年11月)

早いもので今年も残すところあと1ケ月半となりました。コロナコロナでバタバタしているうちに月日が経ってしまう気がして少し焦っています。

 

 今回は長所進展法についてお話ししたいと思います。

 貴方は自分の長所についてどの程度理解していますか?

 長所とは短所に対しての長所ということで、良いところ、秀でているところ、自慢できるところということです。

話しが上手、足が速い、記憶力がいい、健康、人に好かれる、発想が柔軟、料理が上手等々、人には何かしら自慢できるところがあるものです。自分の長所を探した後は、他人にも目を向けてみましょう。夫、妻、子供、親、上司、部下、同僚・・・・どれだけ他人の長所を挙げられますか?

私の尊敬する故船井幸雄さん(経営コンサルタント会社創業者)は、企業経営におけるあらゆる場面で「長所進展法」という手法を用いて多くの会社、人を成功に導いてきました。企業における長所進展法とは、売上の伸びている商品・サービスに、費用、労力を集中するということです。とかく、売上の上がらない商品があると何とかして売ろうと努力してしまいがちですが、船井幸雄さんは売れない商品を売ろうとすることに時間を費やすより、売れている商品をさらに売ることを考えた方が効率が良いと常々言っていました。

人材育成の「長所進展法」とは、長所をさらに伸ばすことによって、短所をカバーするという手法です。「長所進展法」の対極にあるのが「短所是正法」です。「短所是正法」とは文字通り短所を直していくという手法です。短所を治すには時間がかかるというよりも、ほぼ治らないといってもいいと思います。それよりも長所を褒めてどんどん伸ばした方が本人も気持ちが良いと思うのです。こう聞くと、「ほうらね、うちの主人(妻)は短所是正型で全く褒めてくれない、いつも文句言ってばっかりブツブツ…」という方がおられますが、その言動が「短所是正法」そのものなのです(笑)

 
   

 下の図はランドルト環といって視力検査に使われるものですが、これを見てほとんどの人は右の欠けた部分が気になると思います。視力検査をする時は、欠けた方向を指す

ので無理もないのですが…

 人間の性格や、身体能力、業務遂行能力等、人の能力には欠けていない部分(長所)と欠けた部分(短所)があります。

「長所進展法」とは欠けていない部分に目を向けていくということです。逆に「短所是正法」は欠けた部分に目を向けるということです。言葉でいうのは簡単ですが、他人の短所に目をつむるというのは相当に難しいことです。どうしても欠けたところが目立つからです。でも、難しいからこそ長所進展法には価値があるし、効果絶大なのです。

 誰かを教育するという場面でなくても、他人の長所ばかりに目のいく人は性格美人だと思います。一緒に居て心地が良いですし、話していても安心出来ます。もちろん他人に対して長所進展傾向の人は自分に対してもそうですし、短所是正傾向の人は自分にもダメ出しを重ねます。結局は自分が心地よいか否かということにたどり着くのです。

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ランドルト環

 

通信Vol.197(2020年10月)

 稲刈りも進み、周りの景色はもうすっかり秋のよそおいです。台風も飛騨地方からは逸れてくれてホッとしています。全国的には昔と比べて土砂災害などの自然災害が増えた気がしています。備えあれば憂いなし、ささいな備蓄でもいざというときには役に立ちます。みなさんはどんな準備をされていますか?

 

 今回は自分を見つめるという話をしたいと思います。自分の容姿を見るときに、たいがいの人は鏡を使います。鏡が無い世界を想像してみてください、自分がどんな顔をしているのか、どんな表情で人に接しているのか、化粧はうまくできているのか、服装は?頭髪は?等々、考えるべき要素はいくつもあります。

 

 では何故自分の姿を見る必要があるのでしょう?他人からどう見られているかを確認するためではないでしょうか。人間社会の中に暮らしていて、他人の目が全く気にならないという人はいないと思います。大なり小なり自分がどう見られているのか、どんな評価をされているのかが気になります。

 

 姿を映すのは鏡やビデオカメラですが、心の中は誰も見透かすことが出来ません。自分の心の中がどうなっているのかは誰にもわからないのです。だからこそ自分自身で見つめることが重要なのです。

 

 そこまでして自分自身を見つめる必要ってあると思いますか?私は自分の幸せと自己の姿って密接な関係があると思っています。たとえば健康面でいうと自分の健康状態をしっかり把握しないと健康って維持できないですよね。自分が肥満だと自覚して初めてダイエットに取り組みますし、自分の肺の中が汚れていると思わなければ真剣に禁煙にも取り組めないように、自分自身をしっかり見つめることが幸せの第1歩だと思っています。幸せとは、ある程度自分の努力次第で構築できるものだと思います。たとえば思考のクセであったり、生活習慣であったり、口癖であったり、人との接し方で幸せを手に入れることは出来ると思うのです。つまり努力をすればある程度の幸せは手に入ると思うのですが、どこをどう努力すればいいのかわからないと努力のしようがないので、現状の自己の姿を知る必要があるのです。体を鍛えるためにジムに入会したらトレーニングメニューを作ってトレーニングをするように、現状を知ってどこに力を入れるべきかが分かれば効率的に心のトレーニングが出来ます。

 

 自分を知って気を付けると一言で言いますが、正直とても難しいのも事実です。たとえば健康指導の保健師さんが肥満だったり喫煙をしていたり、アンガーマネージメントのセミナー講師が怒鳴り散らしていたり、人材育成のコーチが組織から逃げ出して会社を辞めたり等々、他人に教える人が自分自身実行出来るとは限らないのです。

いま巷でにわかにブームになっている瞑想も忙しい生活の中で自分の心と向き合う手段の一つです。今一度、心を静めて自分自身と向き合ってみませんか?幸せのヒントが見えてくるかもしれませんよ。

通信Vol.196(2020年9月)

先日の台風10号は九州地方を北上したにもかかわらず、飛騨地方でもかなりの強風が吹きました。あれが東海地方を直撃していたらと思うとゾッとしますね。7月の豪雨による土砂災害が完全に復旧していないので、少しの雨でも心配ですね。

 

 今回は人から嫌われる行為と題してお話してみたいと思います。嫌われる行為を知ることは大切です。他人から嫌われようと思えば、その通り実行すればいいし嫌われたくなかったらやらないように気を付ければいいのです。他人から好かれるか嫌われるかは個人の自由ですから、どちらの選択肢を選ぶかは貴方次第です。でもあまり嫌われたいと思う人はいませんよね。他人から嫌われるより好かれる方が得なことが多いのも事実です。損得計算で考えても他人から好かれた方がいいと思います。

では他人から嫌われる行為をいくつか紹介したいと思います。

1.他人の悪口(噂話)を言う

 誰かの悪口を言ったり誰かの噂を言ったりということはよくあると思いますが、自分に

害が及んでいないのに、その人の悪口を言ったり、何処々々で誰かが何かをしていたとか

貴方の悪口を言っていたというような、知らなくてもいい情報を言ってくる人は、目の前

に居ない人の悪口を言う傾向があるので嫌われます。

 

2.他人の話を聞かない

他人の話を聞かないというのは、人の話を聞いても「そうそう私もね~」とか「そうね、

ところでね~」というように自分の話にすり替えたり、他人の話を被せたりする、話の中

身に言及しないということです。そんな人には話しをする気になれないですよね。

 

3.他責思考

 自分のことを棚に上げて、他人に責任を押し付ける思考のことを他責思考と言います。昔ある取引先で、専務が自分の部下がいかに仕事が出来ないかを延々語られたことがあって閉口したことがあります。自然とその営業先からは足が遠のいてしまいました。自分の部下がうまく育たないのは上司の育て方によるところが80%です。残り20%は素質の部分ですが、素質は80%の努力でカバーできます。自分の育て方を棚に上げて部下を非難したり自分の行動を反省しないで、他人ばかり非難する人は嫌われます。

 

4.支配欲が強い

 何でも自分の思い通りに事が運ばないと気が済まない人は支配欲の強い人です。他人の

意見も尊重出来ないと嫌われてしまいます。

 

どうですか?自分に当てはまる所はありましたか?自分自身に気付くことが第1歩です。全くなくそうとするよりも、自分にもこういうところあるなと自覚することが大切です。自分は全く当てはまらないと思った人は、自分が見えていない可能性がありますから要注意です。自分を責めすぎてもいけませんが、一日一回自分を振り返ることはとても大切です。人に好かれた方が人もお金も寄ってきますから。

通信Vol.195(2020年8月)

長い長い梅雨の後は、連日の酷暑が続いています。自然はなかなか人間の都合の良いように振る舞ってくれないものですね。

 

 今回は前回の「自己肯定感の高め方」の第2弾としてお話ししたいと思います。前回お話ししたのは自己肯定感を上げるために、自己評価を上げましょうということでした。自分基準で自己評価を上げる癖をつけたら、今度は自己評価が下がっても「私は大丈夫!」といえる「絶対的自己肯定感」を構築していきたいと思います。

 なぜ絶対的な自己肯定感が必要かというと、誰かと比較して「自分は〇〇が優れている」という相対的(他人と比較して)自己評価は、常に対比する相手が必要だからです。常に「自分はこれだけは他人に負けない」という比較が必要ですし、「貴方の〇〇はすごいね」など誰かの評価を常に求めないと自己評価を維持出来ません。たしかに自己評価を上げる努力は、前向きですし、色んな行動へのモチベーションアップにもつながりますのでとても良いことです。しかし、他者に対して優位性を見いだせなくなった時に、自分の存在価値を見いだせなくなってしまうこともあるのです。ですから自己評価を超えた絶対的自己肯定感が必要になってきます。たとえ誰にも勝てなくても、何も取り柄が無くても、惨めな気分に打ちひしがれても、自分は生きていく価値のある人間だと思える自己肯定感こそが、究極的に目指すところです。

 誰よりも肉体を鍛え上げたオリンピック選手が、重大な交通事故で首から下が麻痺し車いす生活を余儀なくされたことがありました。他の誰よりも強靭な肉体を誇って、世界でも指折りのアスリートであればあるほど、その肉体が自分の思い通りに動かせなくなった時の絶望は深いでしょう。事故に遭わなくても、加齢とともに筋力は衰えます。一説には筋力の衰えは20歳から始まっているとも言われます。記憶の天才と言われる人も脳の老化には勝てません。どんな絶世の美女でも、超イケメンでも刻一刻と老化していきます。つまり、どんな自己評価も時間とともに覆され、誰にも自慢できない老いた人間へと一歩一歩近づいているのです。

 では人生の末路、ベッドで横たわる老人となった時に、貴方にはどんな価値が残っていますか?それまでに築き上げてきた財産に価値を見いだしますか?学歴や職歴に価値を求めますか?子供や孫に頼りにされることを喜びますか?哲学に答えを求めますか?宗教に答えを求めますか?

 自分の肉体が衰えてきたときに必ず対面する問題が、自己肯定感です。「このまま生き永らえて良いのか?」「自分に価値はあるのか?」人はこの大きな問題から目をそらすために認知症になると言った学者もあるほど重要でハードルの高い問題です。答えが見つかる人もあるでしょうし、一生かかっても見つからない人もあるでしょう。

 相対的な自己評価が全く無くなっても、「自分はこの地球に生を受け、生きた証しを刻んできた。最後の一息が切れるまで価値のある人間なんだ!」と思えること、「絶対的自己肯定感」こそ今から構築するべきではないでしょうか。

 

通信Vol.195(2020年8月)

長い長い梅雨の後は、連日の酷暑が続いています。自然はなかなか人間の都合の良いように振る舞ってくれないものですね。

 

 今回は前回の「自己肯定感の高め方」の第2弾としてお話ししたいと思います。前回お話ししたのは自己肯定感を上げるために、自己評価を上げましょうということでした。自分基準で自己評価を上げる癖をつけたら、今度は自己評価が下がっても「私は大丈夫!」といえる「絶対的自己肯定感」を構築していきたいと思います。

 なぜ絶対的な自己肯定感が必要かというと、誰かと比較して「自分は〇〇が優れている」という相対的(他人と比較して)自己評価は、常に対比する相手が必要だからです。常に「自分はこれだけは他人に負けない」という比較が必要ですし、「貴方の〇〇はすごいね」など誰かの評価を常に求めないと自己評価を維持出来ません。たしかに自己評価を上げる努力は、前向きですし、色んな行動へのモチベーションアップにもつながりますのでとても良いことです。しかし、他者に対して優位性を見いだせなくなった時に、自分の存在価値を見いだせなくなってしまうこともあるのです。ですから自己評価を超えた絶対的自己肯定感が必要になってきます。たとえ誰にも勝てなくても、何も取り柄が無くても、惨めな気分に打ちひしがれても、自分は生きていく価値のある人間だと思える自己肯定感こそが、究極的に目指すところです。

 誰よりも肉体を鍛え上げたオリンピック選手が、重大な交通事故で首から下が麻痺し車いす生活を余儀なくされたことがありました。他の誰よりも強靭な肉体を誇って、世界でも指折りのアスリートであればあるほど、その肉体が自分の思い通りに動かせなくなった時の絶望は深いでしょう。事故に遭わなくても、加齢とともに筋力は衰えます。一説には筋力の衰えは20歳から始まっているとも言われます。記憶の天才と言われる人も脳の老化には勝てません。どんな絶世の美女でも、超イケメンでも刻一刻と老化していきます。つまり、どんな自己評価も時間とともに覆され、誰にも自慢できない老いた人間へと一歩一歩近づいているのです。

 では人生の末路、ベッドで横たわる老人となった時に、貴方にはどんな価値が残っていますか?それまでに築き上げてきた財産に価値を見いだしますか?学歴や職歴に価値を求めますか?子供や孫に頼りにされることを喜びますか?哲学に答えを求めますか?宗教に答えを求めますか?

 自分の肉体が衰えてきたときに必ず対面する問題が、自己肯定感です。「このまま生き永らえて良いのか?」「自分に価値はあるのか?」人はこの大きな問題から目をそらすために認知症になると言った学者もあるほど重要でハードルの高い問題です。答えが見つかる人もあるでしょうし、一生かかっても見つからない人もあるでしょう。

 相対的な自己評価が全く無くなっても、「自分はこの地球に生を受け、生きた証しを刻んできた。最後の一息が切れるまで価値のある人間なんだ!」と思えること、「絶対的自己肯定感」こそ今から構築するべきではないでしょうか。

 

通信Vol.194(2020年7月)

 ようやくコロナが落ち着いて来たと思ったら、豪雨による特別警報や避難指示で不安な日々を過ごされた方もあったと思います。被災された方に心よりお見舞い申し上げます。

 

 今回は「自己肯定感の高め方」と題してお話ししたいと思います。自己肯定感というのは、自分は大丈夫という意識のことです。何が大丈夫なのかということは問題ではありません、何があっても「大丈夫!」と自分を勇気づけする感覚です。

 

「私は〇〇が得意」とか「私は綺麗(かっこいい)」「私はイケてる」という自己評価は自己肯定感の第一歩です。他人からどう見られているかとか、他人からどう評価されているかが気になる人は多いのですが、他人からどう見られているかを気にすることは逆に自己肯定感を高める妨げになります。なぜ他者評価が自己肯定感を高める妨げになるの?と思う方もいるでしょう。たとえば誰かに「貴方ってすごく可愛いわね」と言われたらどうでしょう?とても気持ちがいいし、自分の肯定感も上がるような気がします。でも逆に「貴方みたいな不細工に生まれると可哀そうね」と言われたらどうでしょう、自己肯定感が下がるような気がしますか?他者からの評価を自己肯定感の材料にすると、他者の評価によってジェットコースターのように上がったり下がったりします。これでは自分自身の精神の安定にはつながりませんよね。ですから他者評価ではなくて「私は〇〇」という自分が決める自己の評価を上げる必要があります。

 自己肯定感を上げるための第一歩は自己評価を上げることです。自己評価を上げるにはトレーニングが必要です。「私は(俺は)〇〇が得意」「私は(俺は)〇〇が良い」ということをノートに箇条書きで書きだしてみましょう。誰かに自分の長所を聞いてもよいのですが、他者評価を気にする人は自己評価へと頭脳をシフトさせるためになるべく自分で考えて書き出しましょう。基準は自分本位でいいので、自分で自分を褒めたい点をとにかく沢山書き出しましょう。自分で決める評価ですからどんな基準でもいいんです。自分の良いところを見つけるコツはメモ用紙を持ち歩いて気持ちいいと思ったことをすぐに書き留めることです。自分が好きなこと、今までやってきた経験、何でもいいです。美味しいお店を見つけるセンサーがピカイチとか、自分の服装のセンスはバツグン、寝つきがいい、他人の電話番号をすぐに覚えられる、動物がすぐになついてくれる、資格を持っている、ゲームが上手、お酒に強い等々、他人から見たら「そんなこと?」と思えることでも書き出してみましょう。

ちなみに僕はトイレ掃除なら誰にも負けない自信があります。トイレ掃除のオリンピックも国体も無いので、自分が一番って言いやすいですよね。自分が掃除したトイレなら頬ずり出来るレベルです(笑)スポーツや勉強のように他人と比較して「自分は凄い」と言えることでもいいのですが、自己評価の材料としては、相対(他人と比べて)的評価でなく絶対(一人称で完結するもの)的評価の方が自己肯定感に繋がりやすいです。例えばどんな時でもニコニコしていられるとか、素直、掃除好き、料理好き、プラス発想等々です。  

 ・・・・・・・・・・(来月に続く)

通信Vol.193(2020年6月)

 

ようやく緊急事態宣言も解除になりましたが、巷ではまだまだコロナの脅威に対して敏感になっています。完全終息するまではまだ当分かかりそうですね。3密を避けてアウトドアライフを初めた方もいるようですね。

 

 今回は仏教で教えられる「正見(しょうけん)」ということについてお話ししたいと思います。

 人間関係の悩みは人それぞれだと思いますが、「あの人にこんなひどいことを言われた」とか「あの人は、なんであんなことをするのだろう」「自分にもっと優しく接してほしい」などの悩みの根底に共通してあるものは、自分の中にある「こういう場合は、あの人はこう接するべき」「あの人はあんなことを言うべきではない」「あの人はもっと自分に優しく接するべき」という他者に対する「べき」論です。

 

 これを解決する方法が「正見」であると仏教に教えられています。「正見」とは文字通り、物事(人)を正しく見るということですが、どういうことでしょうか。

昔とんちで有名な一休というお坊さんがいました。あるとき悪戯心からか一本の松の木の前にこんな立て看板を出しました。「この松を真っすぐに見た者には※金子(きんす)を与える」これを見た町の人々はあらゆる方向から曲がった松を真っすぐに見ようと、寝転がったり松の木に登ったりしましたがどうしても真っすぐに見ることが出来ませんでした。そこに現れたのが「蓮如上人」といわれる一人の僧侶です。「どれどれワシが金子をもらってこよう」と言って一休和尚の所へ行きましたが、元々蓮如上人と一休さんは友達だったため「おまえは除外じゃ」と言って門前払いしたというエピソードが残っています。

 この話のタネあかしをしますと曲がった松を「曲がった松だなー」と見ることが正解だったのです。「曲がった松だという事実を真っすぐに見る=正見」ということです。これを人間関係に当てはめると「怒りっぽい人なんだなー」「あの人に酷いことを言われて、私傷ついたんだなー」「もっと優しくしてほしいのに(自分が)さみしいんだなー」とそのまま受け取るということです。曲がっているものを真っすぐに見ようとするところに無理があります。

怒りっぽい人は「怒りっぽいんだな―」と観る。傷ついたときは「私、傷ついてるなー」と観る。 「かくあるべき」を捨てて「〇〇なんだなー」と俯瞰して観ることによって少し冷静に物事が観られます。今日からはじめてみませんか?

 

※金子(きんす)=お金