通信Vol.41(2007年10月)

 長い長い夏もようやく終わり、いよいよ仲秋の秋ですねー
 秋といえば紅葉、色付く山を見ながら露天風呂にでも入ったら最高でしょうね。
 
 今年のテーマは、「スポーツの秋」ということで先日から、数十年ぶりにジョギングを始めました。数十年ぶりというのは、中学3年の頃、毎日夕食後に6kmのジョギングをかかさずやっていたからなんです。雨の日も風の日も雪の日も走り続けました。自分に対する意地もあったんでしょうね。
 先日、再び走り始めてその頃の記憶がよみがえってきたので、今回はそのことをお話したいと思います。当時、ジョギングとはいえトレーニングのつもりでしたから、結構ハイペース(のつもり)で走っていると、当然のことながら苦しくなるんです。そんな時に必ず思い出すCMがありました。ハッキリした記憶ではないんですが、公共広告機構のCMでマラソン選手の君原健二さんの言葉が紹介されていました。
君原選手の紹介記事「ウィキペディア」より
『彼は中学時代、友人から駅伝クラブに入るよう勧められ、断り切れずに陸上を始める。福岡県立戸畑中央高等学校時代はインターハイでも予選落ちを経験するなど、目立った選手ではなかった。高校を卒業後、八幡製鉄(現・新日本製鐵)に入社。ここで高橋進の指導を受けて、マラソンランナーとして成長する。初マラソンは1962年の朝日国際マラソン(現・福岡国際マラソン)で、3位に入賞。その後も好成績を重ね、1964年の東京オリンピックの代表に選ばれる。
東京オリンピックに際しては、日本のマラソン代表3人(他に円谷幸吉、寺沢徹)の中でもっともメダルに近いという下馬評だった。しかし、迎えたオリンピック本番ではプレッシャーに潰されて実力を出し切れず8位(当時、オリンピックの入賞は6位までだった)。一方の円谷は銅メダルを獲得する。その晩は宿舎で床についた円谷に羨望と嫉妬と賞賛の入り交じった複雑な感情を抱き眠れなかったという。
東京オリンピックのあと次第に復帰し、 1966年のボストンマラソンでは優勝を果たす。メキシコオリンピックをめざしていた1968年1月、故障に苦しんでいた円谷が自殺し、大きな衝撃を受ける。そのメキシコオリンピックの代表選考は難航し、君原よりも選考会のタイムが上回った采谷義秋との比較になったが、君原に決定する。メキシコ五輪本番では前回の無念を晴らす銀メダルを獲得し、選考過程での疑問を跳ね返した。
31歳となったミュンヘンオリンピックにも代表として選ばれ、5位入賞を果たす。戦後の男子マラソン代表では2大会連続入賞はほかに中山竹通しかいないが、君原の場合、今日のルールであれば3大会連続に相当する記録である。翌年、競技の第一線を退く。その後もマラソン大会には出場を続けており、今日まで出場したすべてのレースに完走している。』
 CMでは、その君原さんが練習やレースの際、苦しいときには、まず「次の電柱まで走ろう」と念じながら走ったというエピソードが紹介されていました。
 実際に走ってみるとわかりますが、走っていると苦しくなる、苦しいけれど君原選手のように「あの電柱まで走ろう」を繰り返して走ると、結果的に何キロも走れてしまいます。
 人生も似ていると思いませんか?毎日楽しいことばかりじゃありません。苦しいこと辛いことが山ほどありますが「今度の休みまで頑張ろう。」「今週一杯頑張るぞ。」「今日一日乗り切ろう。」そんなことの連続で振り返ると何年も経っているのでしょうね。嫌なことから逃げて生きるのと、「もう少し頑張ろう」と少しだけ我慢してみるのでは、5年後10年後大きな差が出来ると思いませんか?