通信Vol.78(2010年11月)

 先日、大学時代に住んでいた学生寮の同窓会を東京で企画し、ほぼ20年ぶりに先輩や後輩と酒を酌み交わしてきましたが、みんな当時のキャラクターは全く変わっていなくて、学生時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えました。同窓会当日、早めに現地に着いた僕は、寮の跡地(今は住宅地になってすっかり様子が変わっていました)で写真をパシャパシャ撮っていたら、年配の男性に「何か用ですか?」と不審者扱いされ、慌てて20年前に近所の寮に住んでいたことを話すと、「ちょっと待ってて」と家の中から奥さんを呼んできて事情を説明してくれました。当時独身だった近所のお姉さん(年月を経てお年は召していましたが)が、すごく懐かしがってくれ、とても嬉しかった反面、寮のあった国有地一体は再開発され昔の面影は無く、寂しく感じました。昔の風景を懐かしむと、人は一瞬たりとも同じ時間に立ち止まっていられないことを痛感しますね。
 
 今回は「出して感謝する」ということについて一緒に考えてみたいと思います。
 先日、ある方が「(お金や物を)出して腹を立てるのは下等、もらって感謝するのは中等、出して感謝するのは上等な人」と言っていました。自分なりにこの言葉を噛み砕いてみたいと思います。
 「(お金や物を)出して腹を立てる」とは、お金を出して食事をした店で、料理が遅い、まずい、対応が悪いと腹を立てることです。そんなお店を選んだのは自分ですから、自分に非がある事を差し置いて他人に腹を立てる。あるいは、料理が遅い事実や自分の希望を店員に伝えるだけなら腹を立てずに済むのに、事実と感情をごっちゃにして腹を立てるということです。その他にも「あの人に、○○してあげたのに礼の一つもない」と腹を立てるのも同じことです。
 次に「もらって感謝する」というのは、お客さんに買ってもらった、こづかいをもらった、お菓子をもらった、○○してもらった相手に対して感謝するということです。ごくごく当たり前のことなんですが、これが難しいことでもあります。もらった相手に腹を立てるのは論外ですけどね。
 最後に「出した相手に感謝する」というのは超難関です。昔、奈良の大仏で有名な東大寺の庭に、ある金持ちが大きな灯篭を寄付しました。その年の東大寺の大法要の祝賀会での出来事。灯篭を寄付した金持ちは、東大寺館主の傍へ行き、酌をするが一向に話が寄付した灯篭の話にならない。業を煮やして話しかけた。
金持ち「館主様、私もお金が余っていて灯篭を寄付したのではないのですよ」
館 主「それは尊いことをなされましたな」
金持ち「・・・・」
館 主「もしや、そなたはワシが灯篭の礼を言わないから、むくれておるのかな?もしそうなら
ワシのほうこそ、いつ礼を言って貰えるかと待っておったのじゃ」
金持ち「私がお礼ですか?」
館 主「ワシは皆さんが布施(良い行い)をされる機会を提供しただけ、農作物に譬えるならば
畑をタダで貸したようなもんじゃ、そこで布施をするということは畑に作物の種を蒔いた
と同じこと、やがて秋になれば作物が実って、種を蒔いた本人が収穫(良い運命)を得る
じゃろう。タダで畑を貸してくれた地主に礼を言うのは当たり前じゃないかね?」
金持ち「ははー、心得違いをしておりました。布施をするのは自分自身の為であって、人様の為
ではなかったのですね。布施のご縁を頂き、ありがとうございました。」

 自分に起こる幸運や不運は、全てが自分の作り出したもので、他人が作ったものは一つもありません。良い行いも悪い行いも全てが「自分の未来の運命」を作り出す素とわかれば、腹を立てることが如何に愚かなことであるかがわかります。感謝するのも他人のためでなく自分の為とわかれば、いろんなことに感謝したくなりませんか?