通信Vol.192(2020年5月)

 コロナ騒動でせっかくのゴールデンウィークも自宅で過ごされた方が殆どではないでしょうか。そんな人間社会のドタバタにも影響されず、自然界では新緑が芽吹いています。

 世間では「自粛警察」なる言葉が出るほど、自分にも他人にも色んな自粛を課しています。自粛警察が最右翼とすれば、反対の最左翼はパチンコ店に入り浸る超楽観主義者といったところでしょうか。

 自分はいったいどの立ち位置を取ればいいのか分からないという人も多いのではないでしょうか?今回は仏教で教えられる「中道(ちゅうどう)」という教えについてお話ししたいと思います。中道とは読んで字のごとく真ん中の道(生き方)ということです。
 今回の自粛についていえば、自分にも極端な自粛を課さない、極端な楽観主義にもならないというのが中道という考え方です。何事もホドホドにということなのですが、なぜ中道が大切なのかというと、極端な考え方にある背景は、自分自身のコンプレックスであったり、怒りのエネルギーであったり、自分自身を許せていなかったり、極端な自己満足であったりと自分の内部にある問題が原因のことが多いからです。どういうことかというと、たとえば自分自身を許せていない人は他人を許すことが出来ないということです。
他人を評価する基準は、すべて自分の心の状態を表しています。他人が自粛を守らないのを見たときに、腹が立つのは自分の自粛が完璧だと思い込んでいたり、自分が他人よりも沢山我慢していると思っているからでしょう。自分自身のことが客観的に見えていないと、自分で「完璧!」と思っていても意外とそうでもないとわからないでしょう。実際に県外ナンバーや県外からの来訪者に厳しい意見を言っている人が、休日になると家族総出で混雑するホームセンターやスーパーマーケットに買い出しに行ったり、飲食店で食事したりしているのを目にすることがあります。隣のお客が地元の人とは限らないのにです。「自分も気を付けてはいるけど、中々厳密に3密は守れないなー」と思えば、他人に対しても「あの人も、気を付けているんだろうけど、キッチリは守れないよね」と少し優しい目で見れるでしょう。

 「中道」を心掛けるということは、自分の心と常に対話をしていくこととも言えます。「自分は出来ているかな?」「自分の基準はこれでいいのかな?」「規律を守るって難しいな」などと自分の心と対話をしていくと、進むべき「中道」がほのかに見えてきます。気を付けたいのは「中道」は自分自身の心を見つめるときの物差しであって、他人を評価する物差しではないということです。あの人は「中道」じゃないという使い方は、本来の使い方ではありません。
 「中道」=「ちょうど良い加減」→「いいかげん」と考えると少し楽になりませんか?