通信Vol.184(2019年9月)

 9月に入ったというのにまだまだ暑い日が続いていて、全国的にみると豪雨の被害や台風の被害など予断を許さない日が続いています。早く虫の音など聞きながらのんびりと秋を感じたいものです。

 今回は、他人の目に映る自分と題して一緒に考えてみたいと思います。
 誰でも他人の目が気にならない人はいません。無人島に一人で住んでいるのでもない限り、他人からどう見られているか気になるものです。「私は他人の目なんか気にしないよ」という人でも、パジャマで街中に買い物に出たり、下着姿で外をウロウロする人は居ませんから、程度の大小はあるにせよ他人の目を気にして生きるのは仕方のないことなのでしょう。
ところがそれが度を過ぎると、他人からどう見られるかではなく他人がどう思っているかを気にしだすようになります。他人がどう見るかということと、どう思うかは明らかに別次元の問題です。例えばブランド物のバッグを持ったり、綺麗な服で着飾るのは、他人から知的に見られたいとか、お金持ちに見られたい、イケてる人に見られたいという欲求からかも知れません。しかし実際に他人から知的に思われているか、お金持ちだと思われているか、イケてる人だと思われているかは別です。人は個々の生い立ちや思考のクセ、自分の立ち位置で他人を見ています。たとえば、近所の子が早稲田大学に入学したと聞くと大抵の人は「すごいね!頑張って勉強したんだね!」とか「頭が良いね」と思いますが東京大学ハーバード大学ケンブリッジ大学の学生は「ふーん、頑張ったじゃない」位にしか思わないかもしれません。又、年収1000万円と聞けば大概の人は「成功者」と思うかもしれませんが、年収10億円の人から見たら「小金持ち」と見えるでしょう。日本では身長180cmが「長身」でも、長身の人の多い国に行ったら「普通の人」でしょう。相手の置かれている環境で自分の見られ方は違ってきます。
また、私生活が満たされて幸せそうな人を見たときに、自分自身が満たされている人は「幸せで良かったね」と祝福してくれますが、満たされていない人は「幸せそうな振りして気味が悪い」と妬んだりします。逆に自分が他人のことをどう思っているかを考えてみるとよくわかります。自分が理解できる範疇の幸せは祝福できますが、自分よりも幸せそうな人を見ると「不幸になれば良いのに」と決して口には出せないことが思い浮かんできます。
 つまり、他人からどう見られるかは、一般的な概念の先は相手の持っている器によって良く見られたり悪く見られたりしますから、あまり気にしすぎるのは無駄だということです。かといって全く人の意見などを気にしないというのも不健全なのですが、なぜ不健全なのかは又別の機会にお話ししたいと思います。
 とにかく自分に信念や自信があってやっていることなら、他人がどう思うかなんて大した問題ではないということです。「人の噂も七十五日」ということわざもあるように、たとえ世の中を騒がせた人でも、3カ月も経てば忘れ去られてしまいます。他人からどう思われるかに翻弄されるより、どうしたら自分が楽しいのか?ワクワクするのか?を考えて心の声に従って生きた方が幸せだとは思いませんか?自分らしく生きるのに遅すぎるということはないはずです!